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花四柱推命について花

 

占い方法

四柱推命は、生まれた年・月・日・時を四つの柱として、『命式』という図式を作成し、そこから個人の運命(命)の吉凶、禍福(かふく)、成敗、貴賤などを推断していく占いです。特に吉凶の判断においては、他に類を見ない占術と言われています。具体的には、年・月・日・時の四つの柱に、陰陽五行(木・火・土・金・水)からなる十干・十二支をそれぞれに当てはめ、相生・相剋・比和・合・冲・旺衰・格局・用神・通変などの一定のルールを使って、その人の運命を占っていきます。
生まれた年・月・日・時の十干・十二支という一見シンプルな素材を使いながら、その判断は切れ味鋭く、それでいて大変複雑といわれる玄人好みの占術です。あまりの難しさのため、各流派・占い師により解釈方法に大きな違いが見られる場合も多いようです。また日本では、一般的に四柱推命と言われていますが、中国などでは『子平(命運を論じる方法の基礎を築き、現在の形にまとめた宗の時代の徐子平の名より)』・『八字(四柱にそれぞれ天干と地支を配置し合計8つの文字を使う)』・『命理』・『命学』などとも呼ばれているようです。

四柱推命のはじまり

四柱推命の源は、清代に編纂された類書(百科事典)『古今図書集成』によると、戦国時代(紀元前400年〜200年頃)の蘭台御史(らんだいぎょし・天子の秘書官)であった珞禄子(らくろくし)であるといわれています。現在伝えられている『珞禄子三命消息賦』は、珞禄子の書いたものかどうか疑わしいところではありますが、今のところ最古の命理書ということになっています。
四柱推命の歴史の中で有名な人物としては、戦国時代(紀元前三世紀頃)の珞禄子(らくろくし)、鬼谷子。漢代の董仲舒(とうちゅうじょ)、司馬季主、東方朔(とうほうさく)、嚴君平。三国時代の管輅、晋代の郭璞(かくはく)、北齋の魏定、唐代の袁天網、僧一行、李泌(りひつ)、李虚中が有名です。そして五代になって、陳希夷(ちんきい)、そして徐子平(じょしへい)が現れたとされています。この徐子平という占術師が、宋の時代(西暦960〜1279)に『珞禄子三命消息賦注』という本を著し、命理が現在の形になったとされており、ゆえに、徐子平が命理の祖と言われています。またその後、同じく宋代の徐大升(じょだいしょう)が『淵海子平』という徐子平の名前のついた本を著し、さらにこの学問を発展させました。
明の時代(西暦1368〜1644年)になると、劉伯温(別名・劉基)(1311〜1375)という人物が『滴天髄』という四柱推命の本を著したとされています。彼は、明王朝の宰相を務めたことのある政治家であり、様々な占術にもたいへん精通している人物でした。 さらに、明の時代は、多くの有名大臣がおり、余春台が改編した『窮通宝鑑』なども著され、調候という概念も広く知られていくこととなりました。また、この時代には現存する原書の中で最も内容がまとまっていると言われる、沈孝膽(ちんこうせん)の『子平真栓』も著されています。これらの『滴天髄』・『窮通宝鑑』・『子平真栓』が四柱推命の三大名著と言われており、四柱推命研究の最重要文献となっております。わが国には、江戸時代の中期に、『淵海子平』が中国から渡ってきました。その後、文政元年(1818年)に長崎の医師・桜田虎門が、『淵海子平』を翻訳し、『推命書』という書物を著しました。これがわが国における四柱推命のはじまりといえるでしょう。その後、明治から大正にかけて四柱推命は一部の人達の間で研究され、阿部泰山氏が中国の原書から次々と解説書を出版し、日本における今日の四柱推命の基を築きました。また、東京では、高木乗氏も研究し、西の阿部泰山・東の高木乗と言われていました。

四柱推命で何がわかるの?

一生の運勢・一年間・一ヶ月間の詳細な運勢・性格(個性・趣味・気質・感情) ・ 容姿・容貌・顔つき・体格 生まれ育った環境・両親との縁の深さ、関係 ・ 兄弟姉妹との関係・ 才能や能力およびそれが発揮できるかどうか(場所・時期) ・ 適性進路や適職・ 健康状態と体質およびかかりやすい病気・結婚相手・恋愛運・財運・社会的地位やその人間関係など・・・様々なことが占えます。

 




 
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